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横浜地方裁判所横須賀支部 昭和54年(ヨ)45号 決定

債権者

鈴木良

右代理人弁護士

岡村親宜

右同

古川景一

債務者

住友重機械工業株式会社

右代表者代表取締役

西村恒三郎

右代理人弁護士

和田良一

右同

美勢晃一

主文

本件仮処分申請を却下する。

申請費用は申請人の負担とする。

事実および理由

一  債権者の申請の趣旨および理由ならびに債務者の答弁等は別紙のとおりである。

二  一件記録によれば一応次の事実が認められる。

1  当事者

債権者(昭和二六年六月六日生)は、高校卒業後、昭和四五年四月一日債務者会社に定期採用として雇用され、研修を経て同年七月浦賀造船所船殻一課に配属された者であり、債務者会社は、昭和五四年五月現在資本金二一三億余円の大手造船会社である。

債権者は債務者会社労働組合の一つである全日本造船機械労働組合浦賀分会(以下「第一組合」という)の組合員である。

2  解雇の意思表示

債務者会社は、債権者に対し、昭和五四年五月一九日到達の文書をもって、同月二一日付で就業規則五〇条一号(精神又は身体に故障があるか、又は虚弱、疾病等のため業務に耐えないと認めたとき)該当を理由として解雇する旨の意思表示をした。

3  債権者の勤務状況および本件解雇に至る経緯

(一)  債権者は昭和五〇年秋ころ、工作一課川間工作係第一内業第一小組立場において小組立取付職として稼働していたが、このころから身体に疲労感、倦怠感を覚えるようになり、同年一一月一八日、債務者会社付属の浦賀病院内科において「慢性腎炎の疑いにて同日から同年一二月四日まで検査の必要を認める」との診断を受け、その後精密検査を受けたが異常がなく、一時的に服薬して出勤を続けた。しかし、その後も身体の不調が続き、昭和五一年三月、聖ヨゼフ病院内科医師石川一夫から慢性腎炎と診断され、同月三一日から同年七月一二日まで入院し、さらに自宅加療を続けた。

(二)  債務者会社は、同年七月二三日付で債権者を休職にした。

(三)  債権者は、同年一一月、主治医である前記石川一夫作成の同月二二日付の「腎炎で加療中であったが一二月一日より事務的勤務なら可能です」との証明書をもとに、債務者会社に対し、事務的業務に就労したい旨を申し出たが、債務者会社は、債権者との労働契約が事務的労働に服せしめる趣旨のものでなかったこと、会社の状況が特に造船部門において経営悪化し、業務の縮少方針を打ち出していることを理由として右申し出を受けいれず、債権者に対し、休業診断書を提出しなくとも休職を継続するので収入については傷病手当金を請求するようにと申し出債権者もこれを受け容れて休職を継続した。

(四)  債権者は、昭和五二年七月二五日、弁護士岡村親宜を代理人として、当時の債権者主治医である川崎協同病院内科医師宮下勝政作成の同月四日付診断書を添付して債務者会社に復職を申し入れた。右診断書には「〈診断〉特発性腎出血、〈今後の方向〉現在の所見より腎炎の所見は全くなく腎機能障害もみられませんので制限した生活の必要は全くありません。今までの現場労働に復帰することは可能と考えますが、時々顕微鏡的血尿が見られますので過労を避け、定期的に受診、経過を追っていく必要はあります」旨の記載がなされていた。

そこで、債務者会社は、浦賀病院予防科医師関尾秀一の「傷病名、特発性腎出血、昭和五二年八月一八日より就業、軽作業七日間」の診断を経て、同月九日付をもって、同月一八日から債権者を復職させる決定をし、一八日から軽作業として工場内の安全通路区分線のペンキ塗り作業を命じた。

債権者は三日間右作業に従事したが、二日目から疲労感、倦怠感が強まり、四日目から欠勤した。

その後債権者が債務者会社に提出した前記宮下医師作成の診断書には、同月二六日付は「全身倦怠感、脱力感強く、長期休業後の為と考えられますが、さらに一か月余りの自宅休養精査を必要とします」と、同年九月二七日付は「特発性腎出血にて精査加療していましたが経過良好ですが、最近感冒、下痢等併発の為さらに一か月間の自宅安静加療を要します」と、同年一〇月二四日は「腎炎にて加療中ですが、気候の変り目の為感冒に罹患すること多くさらに一〇月二五日より一一月末までの自宅休養を要する」と、同年一二月二日付は「慢性腎炎にて自宅安静加療中ですが、さらに一か月間の引き続きの休養を要する」と、同月二六日付は「慢性腎炎にて自宅加療を行っていますがかなり自覚症状も改善しましたので昭和五三年一月一五日以後は就労可能と考えます。それまでは自宅にて様子をみる必要があります」と記載されていた。

(五)  債権者は、休職期間満了の日である昭和五三年一月二二日の数日前である同月一七日復職を申し出たが、予防科医師関尾から詳細な診断書の提出を求められ、同月一九日、宮下医師作成の同月一八日付診断書を提出した。右診断書には「〈診断〉特発性腎出血、〈その後の経過〉長い自宅療養入院治療の為体がすぐ仕事に順応できず八月に出勤後全身倦怠感出現、又九月より感冒に罹患した。その後も一〇月末にも感冒に罹患したりする為引き続き自宅療養体慣らしを行ってきた。その間尿検査上わずかの顕微鏡的血尿はみられますが、たん白尿の出現全くなく血液検査上の障害も全くなかった。五三年一月に入り体調の方もかなり良好になった為今までの現場労働に復帰することは可能と考えます。五二年七月四日付の診断書で述べましたように過労を避け、定期的に受診経過を追っていく必要は今後もあると考えますが、特に治療の必要は認めません」と記載されていた。

債務者会社は、同月二一日から債権者の就労を許可し、同日から軽作業として治具作業を命じ、債権者は同月三一日まで同作業に従事したが、かぜをひき、同年二月一日から七日まで欠勤し、同月八日出勤し、同日から平常作業である小組立取付作業に従事し、九日は午前一〇時に早退し、一〇日、一三日は右取付作業に従事し、一四日は年休を取り、一五、一六日の両日は煙突の改正作業に従事した。右煙突改正作業は、屋外で、地上五メートルの組立仮設足場上に登って鉄板切り抜き文字を煙突に取り付けたり、地上での煙突の溶接跡をグラインダーで平らにしたりする作業であった。

債権者は右作業中およびその後、疲労感が増大し、かぜをぶり返し同月一七日から二四日まで年休を取り、同月二七日から同年三月二日まで小組立取付作業に従事したが倦怠感、疲労感があり、二月二七日と三月一日は早退し、同月三日から年休(三日間)を取りその後は同年四月一二日まで欠勤した。その間の診断書の病名は、同年三月八日から同月三一日までは感冒、同年四月三日から一二日までは急性胃腸炎であった。

(六)  債務者会社就業規則によれば、債権者の休職期間は昭和五三年一月で満了しており、債務者会社は債権者を解雇しうる状況にあったが解雇はしなかった。

(七)  債権者は、同年四月一三日出勤し、軽作業への就労を申し出、同月一八日から二一日まで軽作業として安全通路区分線のペンキ塗り、空ドラム缶利用によるゴミ缶の作成、空ペイント缶利用による吸殻入れの作成、ワイヤーロープ点検の各作業に従事し、同月二四日から同年五月三日まで七日間平常作業である小組立取付作業に従事した。

債権者は、平常作業従事後脱力感、倦怠感、疲労感が始まり、同月四日から同年六月一二日まで欠勤した。その間の診断書の病名は、同年九月八日から一三日までは急性胃腸炎、同月二九日から同年六月一二日までは感冒であった(五月一五日から同月二六日までは年休および特別休暇)。

(八)  債権者は、同年六月一三日出勤し、予防科医師関尾から三日間軽作業の指示があり、同日から同月一六日まで軽作業としてブロック部材等のガス切断面のグラインダーかけ、塗料塗り、ブロック背焼、掃除に従事した。債権者は同月一九日年休を取り、同月二〇日出勤し、従前のグラインダーかけ等の作業への就労を申し出たが、債務者会社に受け容れられず、同日早退し、同月二一日から同年八月三一日まで内二日間の出勤、早退を除き欠勤した。

その間の診断書の病名は、同年六月二〇日から同月三〇日までおよび同年七月一八日から同年八月三一日までは慢性腎炎、同年七月三日から同月一六日までは全身倦怠感(症状診断)であった。なお、債権者が債務者会社に提出した主治医宮下作成の同年六月二六日付の診断書(疏甲一四号証、疏乙七号証の三一)には病名として慢性腎炎と記載されていたが、同医師が同日付で作成した債権者への診断書(疏甲一五号証の一)には診断として「特発性腎出血」と記載されており、同書中の経過および意見中には「血尿は感冒後には増強がみられています。病状が悪化しているとは考えられませんが、以前判断したような現場労働は現在までの経過をみると当面しばらくはひかえ、より軽作業従事の方が好ましいと考えます」と記載されていた。

債権者は、従前平常作業に就労すると体調をくずしていたところから、同年七月一四日、債務者会社に対し、前記「特発性腎出血」の診断書(疏甲一五号証の一)を添付して、債権者が六月一三日から同月一六日まで従事した掃除、ブロック背焼、グラインダーかけ等の作業に従事させるように要求し、第一組合も、同月一七日同旨の申し入れをし、債務者会社と交渉をくり返した。債務者会社は、同月二七日付文書で、債権者が要求する仕事を債権者の属する浦賀造船所において確保することができないので追浜造船所工作部内業一課に転籍のうえグラインダーかけ等の作業に従事させる旨の回答をし、債権者は右申し出を結局受けいれた。

(九)  債権者は、同年九月一日付で追浜造船所工作部内業一課加工係に転籍し、同日、同月四日から同月八日まで、および同月一四日稼働し、ブロック仮止め溶接跡等のグラインダーかけ等に従事した。

債権者は同月四、五日ころからまたまた疲労感、脱力感を覚え、さらにかぜの症状があったため同月九日から一三日まで年休を取り、同月一八日から同年一一月三〇日まで欠勤した。その間の診断書の病名は、同年九月一八日から同月二二日までは感冒、胃腸炎、同月二三日から同月二九日までは感冒、下痢症、同月三〇日から同年一一月三〇日までは胃腸炎、下痢、腰痛、全身倦怠感であった。

(一〇)  債権者は昭和五三年一二月四日、債務者会社に対し就労を求めたが、予防科医師関尾から詳細な検査データがないため許否の判断ができないといわれ、同月一三日まで欠勤し、主治医宮下からのデータ提出のうえ同月一五日から従前従事していたグラインダーかけ等の作業に従事し、昭和五四年二月一九日まで出勤した。その間、債権者は九日間年休を取り、三日間早退し、二日間は一部ストライキで、実稼働日数は二九日間であり、その間(一二月一五日から二月一九日まで)の出勤率は債務者会社従業員の平均の九四パーセントよりも低い八〇パーセント弱であった。また、その間の債権者の仕事量は出来高からすると同一作業に従事していた下請の工員に比して少なかった。

債権者は、同年二月一九日の後記暴行事件の翌日から同年五月四日まで欠勤したが(うち二六日間は無届欠勤)、その間債権者が債務者会社に郵送した宮下医師作成にかかる三通の診断書には、同年三月五日付は「感冒にて昭和五四年二月二六日から同年三月八日まで自宅安静加療を要する」と、同月二三日付は「病名 感冒後の腎炎悪化、昭和五四年二月下旬より感冒状態にて自宅安静を行い三月五日来院精査を行い血尿増強、全身倦怠感頭重もみられる。その後も血尿みられる為五四年三月三一日まで自宅安静加療を要する」と、同年四月六日付は「病名 慢性腎炎再燃、昭和五四年二月末より全身倦怠感、発熱、血尿強悪みられていたが、自宅安静下にてやや軽快の傾向であったが、再び三月下旬より感冒症状みられ全身倦怠感強悪みられる為さらに同年四月三〇日までの自宅安静加療を要す」と記載されていた。

(一一)  債権者は同年五月二日、同日付の宮下医師作成の診断書を提出して就労許可を申し出た。右診断書には「病名 腎炎(慢性)の再燃、昭和五四年二月末より全身倦怠感、発熱、血尿等の病状増悪みられていましたが、その後の自宅安静加療にて病状も軽快し、たんぱく尿も消失、血尿も減少してきましたので、従来通りの就労が昭和五四年五月七日ころより可能と考えます」と記載されていた。

債務者会社は債権者の就労を許可せず、同年五月七日から自宅待機を命じたうえ、前記2のとおり同月二一日付で就業規則五〇条一号該当を理由として解雇した。

4  債務者会社の人員整理状況

債務者会社は、昭和四八年秋のオイルショックを契機として船舶部門の経営が悪化し始め、昭和四九年一〇月から間接部門の人員を削減する方針を打ち出し、同年九月末日、社内、社外を含め合計二五〇一名であった間接部門の人員を毎年減らして昭和五二年三月末には一六九〇名とした。さらに、債務者会社は、現業部門の人員についても削減方針を取り、昭和五一年四月入社者の採用を中止し、昭和五三年一一月には横須賀地区事業所従業員三五〇〇名中一二〇〇名を削減目標とする大量の人員削減計画を発表し、労働組合と交渉を続け、最終的に右目標を七九四名(うち社内六五四名、社外一四〇名)とし、昭和五四年一月一四日、「勇退基準」を発表し、右基準に該当する者から退職を申し出るよう従業員に呼びかけ、特に、右基準中、勤怠不良者等の第一類型該当者は退職を申し出るようにと働きかけ、同年二月一日から同月九日まで退職者を募集した。右募集に対し、七五五名(うち社内五八三名、社外一七二名)が応募し、社内において七一名の未達人員が出た。債務者会社は社内での混乱を避けるため指名解雇をしない方針を取り、右募集期間後も第一類型該当者に希望退職をするように説得した。

債権者は入社以来勤怠状況において最低の評価を受けており、第一類型に該当していたため、債務者会社人事課長中西は、昭和五四年二月二日および同月一六日の二回にわたって債権者を呼び出し、退職を希望するように説得したが、同月二日には若干の応答があったものの、同月一六日は退職の勧告のための呼び出しである旨が判ると債権者は直ちに退席をした。

5  債務者会社労働組合間の抗争

債務者会社には全日本造船機械労働組合浦賀分会(第一組合)と住友重機械労働組合(以下「第二組合」という。)が存在し、従前から対立していたが、第二組合は債務者会社の人員削減計画を了承したのに対し、第一組合は右計画に反対したため、右募集に退職を申し出なかった第一類型該当者は第二組合員は一名であったが第一組合員は五四名であった。そこで、第二組合員から人員削減問題で第二組合員のみが犠牲を強いられており不当であるとの不満が生じ、昭和五四年二月一四日、第二組合員は集会を開き、第一組合員の第一類型該当者が希望退職に応じないことを非難する決議をし、翌一五日同旨のビラを配布したが、そのビラには第一組合の第一類型該当者を赤枠で囲んだ名簿が添付されており、右ビラは債権者の机上にも置かれた。さらに、第二組合員は同月一七日から第一組合第一類型該当者に対し、これを集団で取り囲み退職をせまる等の集団行動に出、第一組合がこれを非難し、会社外で第二組合員に暴行を加える等の事情もあって第一組合と第二組合は激しく対立するに至った。

そして、第二組合員は、昭和五四年二月一九日昼休み、社内において多数が債権者を取り囲み「やめろ」等のシュプレヒコールをくり返し、足で債権者をこずいたり、債権者をかつぎあげて門外へ出す等の暴行を加え、債権者に通院一週間を要する右臀部挫傷の傷害を負わせた。

しかし、債権者は、翌二〇日、年休を取ってビラ配りをし、債務者会社に対して右受傷事実を申告せず、かつ、診断書も提出しなかった。そして、債権者は、前記のとおり三通の診断書を債務者会社に郵送してひき続き欠勤した。

三  就業規則五〇条一号該当性

前記の事実関係からすれば、債権者は、本件解雇当時就業規則五〇条一号に該当していたものと判断される。すなわち、

1  同号の「業務」とは従業員が雇用契約上就労すべきであるとされている業務のみならず、債務者会社が契約上従業員に就業を命じることが可能な業務を含むものと解すべきであるから、まず、本件解雇当時、債権者が、本来従事すべき業務とされていた小組立取付職の業務に耐えられたか否か、ついで、債務者会社が債権者に対し雇用契約上就労を命じることが可能な業務が存したか否かについて順次検討する。

2  小組立取付職の業務に耐えられたか否かについて

前記のとおり、債権者は昭和五二年八月一八日に復職した際は取付職の業務につく前に、また、昭和五三年一月二一日の際は一〇日間(内三日は早退)、同年四月一三日の際には七日間取付職の業務に従事したのみでいずれも体調をくずしており、債権者自身取付職の業務に耐えられないものと判断して同年六月二〇日に取付職への就労を拒否して以後第一組合を通じて業務の変更を求めて交渉を続けたのであるから、本件解雇当時取付職の業務には耐えられない状況にあったものと推認するのが相当である。

3  債務者会社が雇用契約上債権者に就労を命じることが可能な業務の存否について

右の「業務」とは、債権者と債務者会社との間の雇用契約の内容、債権者が提供できる労働の内容、債務者会社の経営状況、他の従業員との公平等を考慮して判断すべきである。

債権者と債務者会社の雇用契約上債権者が提供すべき労務は現場労働であって事務系労働ではなかった。従って、原則として、債務者会社が債権者に就労を命じることが可能な業務とは現場労働と考えるべきである。

債権者が本件解雇当時および将来にわたって提供できる労働の内容について判断するには解雇当時までの債権者の提供した労務および債権者の病気の治癒の程度から判断するほかないところ、債権者の欠勤状況は前記のとおりで、昭和五二年八月一八日に復職して以降本件解雇時までに出勤した期間は、同日から同月二一日までの三日間、昭和五三年一月二一日から同年二月一六日までの約二四日間、同年四月一三日から同年五月三日までの約二一日間、同年六月一三日から同月二〇日までの約八日間、同年九月一日から同月一七日までの約一七日間、同年一二月一五日から昭和五四年二月一九日までの約五七日間であって、稼働期間は極めて短期間である。そのうちで比較的長期であった昭和五三年一二月一五日から昭和五四年二月一九日までの実稼働日数は二九日間で、出勤期間に比し実稼働日数は少なくその間の出勤率も平均より低い。また、その間、債権者が提供した労務内容は、昭和五二年八月一八日の際はペンキ塗り作業、昭和五二年一月二一日の際は治具作業および一〇日間の取付職作業、同年四月一三日の際はペンキ塗り等および七日の取付職作業、同年六月一三日、同年九月一日、同年一二月一五日の際はいずれもグラインダーかけ等であって、債権者が提供した労務のほとんどは本来債権者が就労すべき業務とされていた取付職よりも軽いとされていた業務であり、昭和五三年九月一日以降のグラインダーかけ等を除き、債務者会社において正規の業務とされていた業務ではなく、付随的、一時的業務である。そして、九月一日以降のグラインダーかけ等は、債務者会社において継続的に正規の業務の一環として存在していた業務であったが、債権者が提供した労働の量は少なかった。

債権者の病気の治癒の程度であるが、慢性腎炎発病以降の債権者の再発のパターンはほぼ同一で、休業(自宅療養)→出勤(取付職よりも軽い作業に従事ないし、その後取付職に数日就労)→体調不調、疲労感、倦怠感→かぜ(感冒)、胃腸炎に罹患→慢性腎炎の再発である。そして、本件解雇当時もこのパターンによって慢性腎炎を再発させている。

このような債権者の病気の特質、罹患後の経過、罹病期間の長さ、復職後の就労状況等を総合すれば、債権者は、本件解雇当時、将来にわたって、安定した労務を提供しうるとはいえない状況にあり、かつ、提供できる労務の内容も、本来の業務である取付職の業務よりも軽い作業に限定され、かつ、提供しうる労務の量も通常人に比して少なかったと考えられる。

他方、債務者会社の経営状況は昭和四八年以降悪化し、特に船舶部門において受注の減少等により大幅な人員削減を余儀なくされ、昭和五三年には横須賀地区事業所の人員を約二三パーセント減らす人員削減計画を立て、退職を求める勇退基準を作成して該当者に退職を説得し、昭和五四年二月一〇日現在で七五五名を退職させたが、その時点で七一名の社内未達成人員があり、債務者会社はなお、減量経営をめざしていた。

このように、債務者会社における経営状況の悪化は著しく、債権者よりも勤怠状況が良好と認められる者が人員削減計画によって退職を余儀なくされており、残った従業員の労務状況もまた厳しいものであったことがうかがえる。

以上の諸事情を総合すれば、債権者は、本件解雇当時、将来にわたって提供しうる労務は、本来の業務より軽い、限定されたもので、その量も少なく、かつ、安定していなかったもので、債務者会社の経営状態からこのような労務に見合った業務を債権者のため設ける余裕はなかったもので、他の従業員との公平の見地からも債権者に就労を命じることが可能な業務は存在しなかったものと考えるのが相当である。

もっとも、前記のとおり、債権者の主治医宮下作成の昭和五四年五月二日付診断書(疏甲二〇号証、疏乙七号証の四三)には「従来通りの就労が昭和五四年五月七日ころより可能と考えます」との記載があるが、しかし、同医師は、昭和五二年八月一八日および昭和五三年一月二一日に復職する際にも同旨の診断書を提出しているものであるが、いずれも債権者は就労後慢性腎炎を再発ないし体調が不調となり診断書に記載した予想と異る結果となっており、右診断書の記載をそのまま採用することはできないから、右疎明の存在は前記判断の妨げとはならない。

四  安全保護義務懈怠の存否について

1  債権者は、債務者会社には安全保護義務の一として適正労働配置義務があり、右義務を懈怠した結果、債権者が体調をくずし欠勤を余儀なくされたから、本件解雇は合理性を欠き、解雇権の濫用である旨主張するので以下検討する。

一般に、使用者は、その従業員に対し、安全保護義務の内容として適正労働配置義務を負うものと解すべきことはいうまでもないところであるが、しかし、私病に罹患した従業員を復職させるにあたり、その従業員が特別の労務や特別の労働時間を比較的長期にわたって必要とし、使用者においてその経営状態等から右労務や労働時間を受け容れることができない場合にはその従業員に休職あるいは休職期間満了後は自宅療養(私病欠勤)を命じることができるというべきである。

ところで、債権者は、債権者が復職就労したいずれの際にも債務者会社において適正労働配置義務違反があった旨主張するが、次のとおり、債務者会社に右義務違反が存したとは認められない。すなわち、

前示のとおり債務者会社は、昭和五二年八月一八日復職の際には、従前の労務である取付職に就労可能との診断書を提出して復職を求めた債権者に対し、現場労働のうち最も軽い労務である通路区分線のペンキ塗り作業を命じ、昭和五三年一月二一日には昭和五二年八月一八日提出されたのと同旨の診断書を提出して復職を求めた債権者に対し一〇日間にわたり取付職よりも軽い作業である治具作業を命じたうえで取付職に就労させ、同年四月一三日には一週間、右同様の軽作業の後取付職への就労を命じたものであっていずれも債権者が提出した診断書に添う措置をとっている。そして債権者が復職のたびに数日ないし十数日の稼働のみで体調不調となっているのは、債権者が従事していた従前の職務である取付職の業務に耐えられるまでに体が回復していなかったものであり、債権者が提出した診断書および債権者の復職の申出が債権者の治癒程度に対する判断を誤っていたためであって、債務者会社としては、外見的症状を伴わない疾病に関しては医師の診断書および本人の申出に従って判断すれば足りたものと考えられる。

次に昭和五三年六月一三日に復職した際、軽作業の継続を認めなかった点については、当時、既に、債務者会社において受注の減少から大量の人員整理を必要としていた時期であったことが認められるので、正規の労務ではない特別の労務を認めず自宅での療養を求めたことはやむを得なかったものと考えられる。

昭和五三年九月一日以降に復職した際は、債務者会社は、債権者が第一組合を通じて請求し、一か月余の交渉の末合意した労務に就労させたもので右労務は、債権者が配置されていた浦賀造船所には存在しなかったため、特に追浜造船所へ転籍措置をとって就労させたものである。

従って、いずれの場合にも、債務者会社に適正労働配置義務違反があったと認めることはできない。

なお、債権者は、軽作業に配置転換となった者として和泉常吉等の十数名を挙げ、債権者も軽作業への配置が可能であったのに配置しなかった旨主張する。

しかし、債権者の主張する例のうち、守衛職についてはその勤務の特殊性から欠勤が許されず、債権者に就労を命じることはできなかったものというべきであり、また他の例は、いずれも、従前非常にあるいは比較的安定した労務の提供をしていた者につき、一時的に軽作業に従事後将来は本来の業務に就労させることが可能と判断され、かつ、軽作業についても安定した労務の提供がなしうると判断された者であるから右事例をもって債権者に同様の業務に従事させるべきであったとはいえない。

2  債権者は、さらに、債務者会社が債権者に退職を強要し、第二組合員の集団暴行を黙認・慫慂して慢性腎炎を再発させたので安全保護義務違反がある旨主張するので検討する。

債務者会社は、昭和五四年二月二日および同月一六日に、人事課長から債権者に対し、希望退職するように説得したことは前認定のとおりであるが本件全疎明によっても債務者会社が退職を強要したものとは認められず、また、債務者会社が人員削減計画をたて「勇退基準」を作成し、債権者が右基準に該当するとしたことそれ自体を債権者に対する威圧と解することはできない。さらに、債権者が昭和五四年二月一九日に第二組合員から集団で暴行を受けた事件については、右事件と債権者の慢性腎炎の再発との間に因果関係が存在するか否かは別として、前記のとおり、大量の人員削減の実施にあたり、第一組合と第二組合との対応方針の衝突から生じたもので、債務者会社が右暴行事件を黙認・慫慂したと認めるに足る疎明は存在しない。仮に、債務者会社人事担当者が第二組合員が集団で債権者を取り囲んでいる現場を通りかかり、あるいは居合わせたとしても、従前から対立し、暴力事件を互いに起こしてきた両組合の一方に加担すると受け取られる行動に出なかったことをもって直ちに黙認したということはできない。

従って、いずれの際も債務者会社に債権者に対する安全保護義務違反があったとは認められない。

五  結論

以上の次第で、本件解雇は就業規則に該当する合理的なもので、解雇権の濫用であるとは認められないから、債権者の本件仮処分申請はその被保全権利が認められないこととなり、かつ、保証を立てさせてその疎明に代えることも相当ではないから、その余の主張について判断するまでもなく右申請を失当としてこれを却下することとし、申請費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 瀧田薫 裁判官 花田政道 裁判官 梶陽子)

別紙 仮処分命令申請書

申請の趣旨

一、申請人が、被申請人に対し、労働契約上の権利を有する地位にあることを仮に定める。

二、被申請人は、申請人に対し、昭和五四年六月以降本案判決確定まで毎月二五日限り金一一万四、七二四円の金員を仮に支払え。

三、申請費用は被申請人の負担とする。との裁判を求める。

申請の理由

第一、当事者

一、申請人

申請人は、昭和四五年四月一日、被申請人会社に入社し同年七月以降船殻一課に勤務し、昭和四七年一〇月一日以降は会社組織の編成替にともない船殻三課(後工作一課川間工作係)に勤務し、昭和五三年九月一日以降、配置転換により追浜造船所工作部内業一課に勤務していた労働者である。そして申請人は、全日本造船機械労働組合浦賀分会(第一組合)の組合員である。

二、被申請人会社

被申請人会社は、産業機械等の製造ならびに販売、船舶の新造、改造ならびに販売を目的とする資本金一〇七億円余のわが国有数の独占大企業である。

第二、「解雇」の意思表示の存在とそれに至る経緯

一、申請人に対する解雇の意思表示の存在

被申請人会社は、昭和五四年五月一九日申請人に到達した文書をもって、同月二一日付で申請人を解雇する旨の意思表示をおこなった。会社の主張する解雇事由は、社員就業規則第五〇条第一号(精神又は身体に故障があるか、又は虚弱、疾病等のため業務に堪えないと認めたとき)に該当するとするものである。

二、解雇に至る経緯

申請人は、昭和五〇年秋頃慢性腎炎の疑いありとの診断をうけて以来、入院、通院加療を続けていた(昭和五一年三月一五日に正式に「慢性腎炎」と診断された)ものであり、昭和五一年七月一二日より被申請人会社は申請人を休職とした。申請人は同年一一月二二日には、申請人の主治医より事務的勤務であれば就労可能である旨の診断をうけ、また翌五二年七月には、同じく主治医から現場労働に復帰可能であるが過労をさけるべきである旨の診断をうけたことから、申請人所属の全造船浦賀分会とともに被申請人会社に対し、申請人を配置転換し、申請人の身体的条件に適した作業に就労させることを再三要求したのであるが、被申請人会社は、申請人を、昭和五三年九月一日に復職させ追浜造船所工作部内業一課加工係に配置転換させて、申請人が同係の業務に従事したところ、同月一八日より申請人は病状を再燃させ再び休業することを余儀なくさせ、通院加療を行なった。

しかし申請人は、順次健康を回復するに至り、昭和五三年一二月一四日より、右内業一課加工係の業務に平常通り就労していた。ところが、申請人は、被申請人会社によって、被申請人会社の進めていた「合理化」の一環として、「勇退基準第一類型者」と指名され、昭和五四年二月二日、八日、一六日の三回に亘り、課長等から「退職勧奨」をうけたのみならず、住重労組横須賀支部・職場を守る行動組織者の会議連名で申請人を名指しで退職をせまる「決議文」が作成されて昼休みに申請人の机の上に置かれ、しかもその決議文に記載された申請人の氏名にペンで囲みが記入されるなどのいやがらせをうけたうえ、同月一三日、一九日、二〇日の三回にわたって住重労組横須賀支部員及び被申請人会社職制八〇名ないし一五〇名に取り囲まれて暴行され、腰部、左大腿、左小指等の打撲をうけ、一九日及び二〇日には全治一週間の通院加療を要する負傷をするに至り精神的疲労が重なったことから、感冒との合併もあって腎炎を悪化、再燃させ、同月二六日以降、同年四月三〇日まで欠勤して治療せざるをえなくなったものである。

しかるに、同年五月二日付診断書をもって五月七日頃から従来の就労が可能であるとの医師の診断が下され、右診断書が、被申請人会社に申請人より届けたにもかかわらず、被申請人会社は、前掲一、記載のとおり、申請人に対し解雇の意思表示をなすに至ったものである。

第三、解雇の意思表示の無効

本件解雇の意思表示は、次のいづれかの理由により無効である。

一、社員就業規則第五〇条第一号に該当しない。

被申請人会社は、申請人が、前記疾病により休業したことをもって右就業規則に該当する旨主張するが申請人は以下の理由により右就業規則の条項に該当しない。

1 社員就業規則第五〇条第一号により「精神又は身体に故障があるか、又は虚弱、疾病等のため業務に堪えないと認めたときには、解雇する」旨定めている趣旨は、労働契約において労働者が負担すべき債務であるところの労働力の提供が、労働者の精神的又は肉体的条件により被申請人会社の必要とする労働力の提供として履行不能ないし不完全履行となった場合に、使用者が労働契約を解除(告知)しうるとするものである。

ところで、労働者が提供すべき労働力について考えてみるに、その質、量は、使用者が労働者を配置するところの業務の内容によって規定されるが、他面、使用者は労働者が提供しうる労働力の質、量に応じて、労働者を業務に配置すべき義務を負うのであり、労働者が提供しうる労働力の質、量を無視して労働者を業務に配置した場合(例、未熟練の新卒労働者を熟練を要する業務に配置するなど)に、労働者が、その業務に必要とされるだけの労働をなしえないからといって労働者の負担する債務の不完全履行ないし履行不能とはならないのである。

本件の場合、前掲第二の二で主張したとおり、申請人は、昭和五一年一一月より軽減労働であれば就労可能であったのにもかかわらず、被申請人会社は、申請人をかかる業務に配置しなかった。労働者が多数存在する場合、疾病に罹患したため軽減労働であれば就労しうる労働者が一定の割合で存在するのは法則的現象であり、また、被申請人会社のごとき巨大企業の場合には、多種多様な業務の中に、身体的負担の軽度な業務が存在することも客観的事実である。

従って、使用者は、身体的負担の軽度な業務の量が少なく、軽減労働であれば就労しうる労働者を配置しても、かかる労働者に余剰が出るというような合理的理由が存しない限り、軽減労働であれば就労しうる労働者を軽減労働に配置転換すべきであって、かかる配置転換を行なわずして、軽減労働であれば就労しうる労働者を「業務に堪えない」と判断し解雇することは許されない。

従って、本件の場合、申請人の昭和五三年一二月一三日までの休業は、被申請人が適正な配置転換を行なわなかったことによるものであり、申請人の疾病の程度も「業務に堪えない」ものではない。

2 社員就業規則第五〇条一号の趣旨が前記1のとおりである以上、労働者が負担すべき債務の履行が不能となったことの帰責事由が会社にある場合には、当然右条項を適用することは許されない。

一般的に使用者は、労働契約上の信義則にもとづき労働者の生命・身体健康の安全を保護すべき義務(安全保護義務)を負担するのであり、また医学的にみて、慢性腎炎の病歴を有する者は、精神的疲労により腎炎を再発させることがあることは広く知られた公知の事実であるから、使用者は、慢性腎炎の病歴を有する労働者に対し、精神的負担を課す業務に従事させてはならない義務を負うのである。

本件をみるに、前記第二の二、記載のとおり申請人は、昭和五三年一二月一四日より平常勤務に服し、健康を回復していたのであるが、被申請人会社は右義務の履行を怠り、平常勤務に復帰している申請人を「勇退基準第一類型者」に区分し、課長らをして執拗な「退職勧奨」を行なわせ、右区分を住重労組横須賀支部等に通報して宣伝させ、同支部等の者が申請人に対し、いやがらせや暴行をなすのを黙認・慫慂して、申請人に過度の精神的負担を加え、腎炎を再燃、悪化させ、休業のやむなきに至らせたものである。

従って、申請人が昭和五三年一二月一四日以降、健康を回復し平常勤務についていたにもかかわらず、翌五四年二月二六日以降休業し労働力の提供をなしえなくなったことの帰責事由は、会社にあると言わざるを得ず、債権者たる会社の責に帰すべき履行不能を理由に会社が社員就業規則第五〇条第一号を適用して申請人を解雇することは許されない。

3 申請人について、昭和五四年五月七日頃から就労可能である旨の医師の診断が下されていたのであるから、被申請人会社が本件解雇の意思表示をなした時点においては就業規則第五〇条第一号に該当する事由は存しない。

二、解雇権の濫用である。

解雇が法的に許されるためには、当該労働者を企業外に排除しなければならない客観的合理的理由を必要とするが、申請人は、昭和五三年一二月一四日以降二ケ月以上も平常に勤務できる程度まで健康を回復させていたのであるにもかかわらず、第二組合が、名指しで第一組合員の整理解雇を求め、暴行を加えるという日本の労働運動史の中でも例を見ない異常な合理化攻撃のために、一時的に腎炎を再発させたにすぎず、本件解雇は、解雇権の濫用であり無効である。

第四、本件仮処分の必要性

以上の理由により、本件解雇は無効であり、申請人は、被申請人の従業員たる地位を有しているにもかかわらず、会社はこれを争うので、申請人は本訴を提起すべく準備中であるが、申請人は会社から支払を受ける賃金を唯一の生活の糧とする労働者であり、他にみるべき資産もないから、本件解雇によりたちまち生活に困窮し、本件仮処分命令によって賃金の支払を受けなければ、本訴の勝利をまっていてはつぐなうことのできない損害をこうむる。

第五、結論

よって申請人は、解雇当時一ケ月金一一万四、七二四円の賃金の支払を会社よりうけていたので申請の趣旨記載の裁判を求めるため、本仮処分申請に及んだ。

別紙 答弁書

答弁の趣旨

本件申請を却下する。

との裁判を求める。

申請の理由に対する認否

申請書「申請の理由」の項記載の事実中

第一、当事者

一、概ね認める。

ただし申請人鈴木(以下鈴木という)が船殻三課に配属されたのは昭和四六年八月一六日である。

二、認める。

ただし会社の資本金は昭和五四年五月三一日現在、二一三億九、二九七万七、五五〇円である。

第二、解雇の意思表示の存在とそれに至る経緯

一、認める。

二、会社が鈴木を昭和五一年七月二三日(一二日ではない)休職としたこと、昭和五一年一一月三〇日(二二日ではない)および同五二年七月鈴木から会社に対し病気全快を理由に復職の申入があったこと、同五三年九月一日会社が同人を追浜造船所工作部内業一課加工係に配置転換し同人の希望する軽作業に従事させたこと、会社の雇用調整の実施に際し同人を「勇退基準第一類型」該当者として指名し、これに退職の勧奨をしたこと、同人が昭和五四年二月二六日以降解雇に至るまで全く出勤しなかったこと、同人が会社に同年五月二日付診断書をもって五月七日頃から就労が可能である旨の申告をしたこと、および会社が同人に対し解雇の告知をしたことは認める。

その余は争う。

第三、解雇の意思表示の無効

一、すべて争う。

二、争う。

鈴木が昭和五三年一二月一四日以降二カ月以上も平常に勤務できる程度まで健康を回復させていたとする主張は著しく事実に反するものである。

第四、争う。

第五、争う。

会社の主張

会社が鈴木を解雇した理由は以下のとおりである。

一、会社は昭和五四年五月二一日、鈴木が同五一年七月二三日休職となって以降の健康状態が会社の勤務に堪えないものと判断し、会社が通常解雇の要件を定めた就業規則第五〇条第一号「精神又は身体に故障があるか、又は虚弱、疾病のため業務に堪えないと認めたとき」を適用して、これに解雇の告知をした。

なお解雇予告手当はその際同人に提供してある。

二、鈴木の右期間内における欠勤・休務ならびにその原因となった健康状態は大要以下のようなものであった。

(一) 鈴木が昭和五一年七月二三日、それ以前感冒、大腸炎、感冒性下痢および腎炎等の病名で引続き病気欠勤を継続し、休職となったことは同人主張のとおりである。

(二) 同人はその後一年有余を経過した昭和五二年八月一八日、会社に対し休職の理由となった病気が全快したと申告して、いったんは復職した。

しかし鈴木は会社に対し僅か軽作業三日間の労務を提供したのみで、その後同五三年一月二〇日まで引続き欠勤した。その間の同人の病名は全身倦怠感、特発性腎出血、感冒、慢性腎炎というもので、明らかに休職の原因となった病気が会社の勤務に堪える程度まで回復していないことを示すものであった。会社は業務外の疾病による休職に関しては、労働者の利益のため勤務年数に応じて一定(鈴木の場合は一八月間)の休職期間を付与しているが、鈴木の休務は休職発令後右の時点までにおいてほぼ右の一八月の期間を経由していたのである。

(三) 鈴木は昭和五三年一月二一日から軽作業に就労し、一月は七日間稼働したが、二月は稼働八日間(うち二日は早退)、三月は稼働二日のうち早退一日という勤務状態で、その余はすべて会社の休日や同人が権利として保持している年次有給休暇(以下年休という)をフルに行使した。しかしその後三月三日から四月一二日に至る間はまったく稼働がなかった。病名は感冒、急性胃腸炎というもので、明らかにこの時点でも従前の病気が治癒していないことを示すものであった。

四月一三日から出勤し、同月はともかく一一日間稼働したが、五月に入ると二日間稼働したのみで、同月四日から六月一二日までは特別休暇、年休および病欠一六日ということで、この間はまったく稼働がなかった。同月一三日、会社は出勤してきた鈴木に対し、同日以降四日間の軽作業(ならし作業)の後、本来の業務に入るか、さもなくば病気の療養に専念すべきことを指示したが、同人は同二一日から七月二日まで稼働することがなかった。同月三日いったん出社したが、その後は同一七日に出勤(早退)したのみでそれ以降八月三一日まで連続欠勤となった。その間の病名は同じく特発性腎出血、慢性腎炎、感冒、胃腸炎、血尿、全身倦怠感であった。

(四) この間会社は鈴木および同人の所属する組合と鈴木の処遇について協議したが、特に同人や組合の希望を容れ、最後的処置として九月一日以後同人を追浜造船所工作部内業一課に転籍させ、同人の希望する軽作業に従事せしめた上でその結果を観察することとした。

その作業は会社においては職種としては存在しないものであり、同人のために特に用意したものであるが、既に雇用調整、減量政策を実施していた会社の経営状況としては格別の措置というべきものであった。

しかし鈴木は九月は一日、四日から八日までの五日間、および一四日に稼働したのみで(その余は休日および年休)同月一八日以降、一一月三〇日までまたもや長期の連続欠勤をすることとなった。病名は以前と同じく感冒、胃腸炎、下痢、全身倦怠感というものであった。一二月四日に出勤したが、同日は早退し、同月一五日に出勤するまでの間、稼働せず私病六日、その余は年休を行使した。

なるほど同人は一二月一八日以降翌五四年二月一九日までの約一月間は、ほぼ通常の出勤状態(ただし軽作業でこの間年休は九日とっている)に入ったが、その後は一九日に早退して以降同二〇日から五月四日に至る間会社に対する労務の提供はまったくなかった。かつその期間には長期の無届欠勤が介在した。そして同人が無届欠勤後相当期間を経由した後会社に提出した事後作成の診断書によれば、この間の連続欠勤事由も感冒、全身倦怠感、腎炎等の病気によるというものであった。

三、鈴木は本件申請において、会社が同人に対し、その健康上可能な「事務的業務」や軽減作業に従事させる措置をとらなかったことが、同人が連続欠勤を余儀なくされた理由であり、また同人の昭和五四年二月二六日以降の欠勤も会社の帰責事由によるものであると主張するので、以下この点に関し付言する。

(一) 鈴木が休職となった後、昭和五一年一一月三〇日(二二日ではない)会社に対し、同人が「事務的業務」を処理し得る程度に健康が回復したことを申告し、「事務的業務」に就労したい希望を会社に述べたことは事実である。

しかし、鈴木の事務能力の有無はともかく、会社と鈴木の労働契約が同人を事務系労務に服せしめる趣旨のものでなかった上、当時の会社の状況が特に造船部門において危機症状を呈しており、会社は既に間接部門の縮小方針を打ち出していたことは鈴木も知るとおりであり、この時点での鈴木の希望は到底許容できる性質のものでなかった。鈴木もこの事情を認めざるを得なかったから結局会社の勧告に従がい、病気本復に至るまで休職を継続して治療に専念することとなったのである。そして当時鈴木の休職期間はなお一年以上残存していた。しかし鈴木のこの際の申告趣旨が果して同人の健康状態に即した適切なものであったか否かはその後同人が同五二年八月全快したと称して復職となった以降の勤務状態に徴しても甚だ疑わしい。そして鈴木主張の如く慢性腎炎の病歴を有する者が精神的疲労により再発するおそれがあることが公知の事実であるとしたら鈴木のような事務労働に不慣れな者をその部門に配属することが適切であるか否かも大いに問題があるところといわねばならない。

(二) 鈴木はまた会社が病気持ちの同人を身体的負担の軽度な業務に配置すべき義務があったにもかかわらずこれをしなかったものとして、本件解雇を違法と主張する。しかし、主張の如き義務があるか否かはともかく以下述べるように、会社は鈴木の長期間にわたる労務の不提供を敢えて受忍しながら、同人の健康を十分に配慮し、特に同人が病気の本復もないまま就労することのないよう再三注意してきたし、また同人の復職に当っては軽減労働を指示して、本人の健康状況を十分観察する措置はとってきたのである。

(1) 昭和五二年八月には鈴木はなお相当の休職期間を残しながら会社に対し文書を以って病気が本復したこと、および即刻復職措置を求める旨申告した。同人はこの申告を特に弁護士を代理人として行なっている。会社は同人の入社以来の勤務状況と、その原因と見られた健康状態を警戒し、休職期間も十分残存することから、なお、健康回復に専念すべきことを勧奨した。

しかし、同人が会社の勤めに従がわず職場復帰を主張したため、特にその所属職場であった工作一課川間工作係では工場通路の線引等の軽作業を選んで指示したが、果して同人は三日間の稼働にしか堪えられず、再び長期連続欠勤に入ったのである。

(2) 昭和五二年年末および同五三年年初、鈴木が休職となってほぼ、一八ケ月を経由した際にも、会社はこれによって直ちに同人を解雇とする措置はとらず、なお病気回復に専念すべきことを同人および組合に指示している。

同人は強気に約一ケ月余の間就労をしたが、またまた勤務に堪えられず、その後断続的な連続欠勤状態に入ったことは前述のとおりである。

同年六月一三日以降、会社は同人の身体が作業に耐えるため特にならしのための軽作業を指示した。しかし同人は本来の業務に入る体力がなく、そのまま連続欠勤状態になったが、その病名が同人の休職原因となった慢性腎炎等であったことは同人提出の診断書に明らかである。

(3) 会社は同年九月以降、特にその希望を容れて鈴木を追浜造船所に転籍させ、軽作業を指示してこれに従事させたことも前述した。

(三) 鈴木が昭和五四年二月二〇日以降、労働力の提供をなし得なくなった原因が別組合との抗争にあったとする鈴木の主張については、会社はその事実をまったく知らない。しかし右の組合間抗争において鈴木に対し、同人の病気を再発させる程度の暴行が加えられた等の事実は会社の調書によっても、この欠勤の期間同人が会社に対して提出した診断書の内容によってもこれを認めることはできない。また同人は前述した勤怠状態からして、会社が雇用調整の方法として定めた人員削減基準(勇退基準)に該当したものである以上自らの責に帰すべきことであり、またそのことを理由として、会社が同人に対し格別の精神的圧迫を加えた事実も存在しない。

その病気欠勤について会社の帰責事由を云々する鈴木の主張は、以上の経過に徴してもまったく理由がない。

四、会社は昭和五四年五月二一日、鈴木の前述した勤務状況を問題とし、組合とも協議の上同人に対し解雇の告知をした。その際の会社の判断の大要は以下のとおりである。

(一) まず会社は昭和五四年五月時点まで生起した同人の勤務実態に関し、鈴木がその疾病のため会社業務に堪えられず、鈴木から今後継続かつ安定した労務の提供を期待することは不可能であると判断した。鈴木は同年二月二〇日以降連続欠勤をし、事後相当期間経過した時点において医師の診断書を作成し、これを会社に提出してきていたものであるか、(その行為が会社の規律上許されないものであることはいうまでもない)その診断書によればこれは病気欠勤ということであり、病名は昭和五一年休職となった際の病名と同一のものであったことは前述のとおりである。会社は同人から安定した労務の提供を受け得る事態を期待して、同人の前記の如き欠勤を受忍してきたものであるが、同年五月の時点ではその受忍も限界にきたものと判断せざるを得なかった。

(二) なるほど同人が五月四日会社に提出した診断書によれば五月七日頃以降、従来どおりの就労が可能と推測される趣旨の医師の判断が記載されていたことは事実であるが、これを以て同人の健康がこの時点で完全回復したと判断し、同人から平常どおりの労務の提供を期待することは前述した過去三年有余の経過を勘案しても、不可能なことであった。

会社は鈴木から就労の申出があった場合は、まず療養に専念すべきことを同人ならびにその所属する組合にも勧めてきたが(組合もまた本人に対し会社の真意は十分説明したことを団体交渉の席上で明らかにしている)、本人は診断書持参の上、敢えて就労し、いずれの場合も勤務に堪えられなかったことは前述したとおりである。

以上

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